たふえいんといなあふ 不思議な魔法の言葉 

No Movie, No Life、、、映画と食べものと、ときどき天然妻、、、

食は映画なり/この世界の片隅に

NHKあまちゃん>以降人気上昇中に事務所とモメ
テレビや映画のメディアからすっかリ消えた能年玲奈
本人にとっても事務所にとっても
何も利益のないムダな時間を過ごしたわけだが
その間に能年の役どころと思われる仕事を埋めていったのが「広瀬すず」だ
広瀬すずにとっては千載一遇のチャンスをものにしたわけだ

一方
能年玲奈は芸名を「のん」に変え再スタートをきり
その最初の仕事がこの映画の主人公「すず」の役だった
「すず」なんとも広瀬すずをイメージする
なんとも皮肉な巡り合わせだ
しかしこの映画の主人公役の声は「のん」こその役で
広瀬すずではない、役不足
のんは上手く演じている

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食を通した反戦映画

天然力
主人公の「のん」の、いや「すず」の天然力こそが
この映画の柱
天然だから乗り越える
いや天然でものり越えなくてはならない苦難

映画のハイライトは義理の姪っ子「ハルミ」を亡くし
同時に自分の右手も失った「すず」

それでも戦争は終わらない
人が死んでも、手を失っても、戦争は終わらない

そして
望もうと望まないと「生きなければ」ならない
生きることは食べること
女たちはそのためにメシをつくる
泣こうが喚こうが生きているならメシをくうしかない

火垂るの墓>では子供たちは
ザリガニやタニシをとって食べるしかない
大人の工夫はそこにはない
それでも子供たちは生きる
生きるしかない

劇中のところどころに
生き物(サギや蟻やカブト虫)が食料を求めている場面が挿入されている
今村昌平ほど生命力をエネルギッシュな画で迫るわけではなく
さりげなく描かれる
普通に普段通りに
戦争だろうと戦争でなかろうと
いつも通りに生き物たちは食料を接収する
しかし
地上で最も賢いはずの「人間」は
あたりまえのことさえもままならない、、、
 
脚本力
原作を読んでいなと解り難い箇所もあったが
立派な映画に仕上げる脚本の力があった
プロの仕事

ラストの孤児は「座敷童」に通じる、うまい!

表現力
アニメの優位性特異性をぞんぶんに生かしたアイデアによる表現力
アニメならではの巧みな表現が活かされている

人さらいの化け物や座敷童などのエピソードが
物語のイメージを豊かにし
さらに物語の後半に活きてくる
そういうところが他の反戦アニメとは違う

喪失
主人公の天然妻すずは絵を描くのが上手
自分が書いた絵によって
幾人も人と今までコミュニケーションをとって彼女は生きてきた
彼女の書く絵は「人とのつながり」「大切な宝物(才能)」
その一番大切なもの「右腕」を奪われたすず
(同じようにケイコはハルミを失った)

「何が良かった?」
その苦しみは計り知れないが
やはりそれでも生きるしかない、、、

冒頭
名曲<悲しくてやりきれない>が流れるが
劇中、主人公ののんは決して「悲しい」とは言わない

「寂しい」という言葉を一度使ったきり「悲しい」とは言わない
本当に悲しいときには人は「悲しい」とは言わない

悲しくても生きるしかないのだ、食べるしかないのだ
食べるのを止めた時、死を意味する

まさに「食は映画なり」
食べて、生きる、それを描いた秀作