昔、友人に
「黒澤やスピルバーグは第一級のA級の巨匠だけど、溝口やウエルズやドライヤーは
超一級の超A級の大巨匠だ」と言ったら、
怪訝な顔をされた、、、だって本当のことなんだも~ん
そのドライヤーの遺作<ガートルード>
題名は
<ハムレット>に登場する夫殺し
そしてその弟と再婚した妻の名だが
こちらの物語とは関連付けて観る必要はないようだ
むしろ
おかしいかも知れないが
同じ遺作キューブリックの<アイズワイドシャット>を
ボクはイメージした
両者の遺作となったのは
たまたまのことかもしれないが
死期が近づくと巨匠たちは
人間の本質であるところの「性」を描いて見せたくなるのかと
勝手に仮説を立ててみる
この映画
まるで舞台劇を観せられているかのように
おおまか20分づつ起承転結四幕からなっているかのような構成で
ほとんど室内に限定しキャメラはあまり外に出て行かない
室内のキャメラって難しいよね
引きがとれないから
宮殿や大きな教会でない限りロングが撮れないし
動きも限定されがち
なのに
この映画の中では
キャメラは室内をパンしてみせたり
移動したりする、よく動く、、、
いい監督のパンって
その動きの始点と終点の構図がキマっているんだよね
計算しつくされているから
パンした意味に説得力があるんだよね
素人が美しい景色に出会うと
ビデオカメラで、右から左に、左から右にパンしたくなるように(ボクのこと)
まったく意味のないパンをしてる監督が時々いるけど
あれには「よく監督やってるもんだなぁ」と呆れる
物語
ガートルードは次期大臣候補の妻の座にあるが、仕事一筋の夫に満足できず、若い音楽家と不倫関係にあり、夫と離婚してその愛人と再婚することを秘かに願っているが、愛人は「アバンチュールに付き合っていた」と言い、真剣だったガートルードをガッカリさせる、一方彼女の昔の恋人からは求愛され、夫も離婚を思いとどまるよう説得するが、彼女本人はまったくその気がない、、、
夫、愛人、元恋人
むしろ、このガートルードこそハムレット
「女の愛」の葛藤、魂の渇望、
男には理解できない女の性サガ
そのサガに苦しむ女の姿
(苦しむのは男も同じだが、映画の中心はやはり女ガートルード)
主人公の彼女の背後に
裸女に噛みつく犬の群れの絵画が飾られているね
そのショットがいい
ラストのガートルードの言葉
自分が入る墓は決まっているという彼女
その墓碑文には「愛がすべて」と刻むそうだ
物語を追うことを映画鑑賞とする人には
まったく退屈な娯楽色のない映画だが
本当の傑作、本当の名作、、、
なんで日本では
カールドライヤーものって埋もれているのだろう
もっと誰でも簡単に観られる「文化インフラ」がないと
映画という芸術は引き継がれなくなり
映画を解く読解力、映画を観る鑑賞力が培われなくなってしまうと思ふ、、、
唯一の屋外は逢引きのシーン