<ガートルード>と<裁かるるジャンヌ>を観て
この両作品が同じ監督の作品とは思えないだろう
強烈に印象的なクローズアップを多用する<裁かるるジャンヌ>と
限られた空間の中でミドルのショットでロングテイクする<ガートルード>
いずれにしてもカールドライヤーは
多くのヨーロッパの著名で偉大な監督たちに
多大な影響を与えた監督だから、
まさか、映画ファンを自称しておいて
<裁かるるジャンヌ>を観ていない人はいないはずだ
もし、いたらとしたら
今すぐ、そっと、黙って、見ておこう、、、W
ボクは何度も「奇跡」を見ている
スポーツ競技の観戦で、
「絶対に逆転できないだろう」「大差をひっくり返すのはムリ」
「そんな奇跡は起きるはずもない」と思われる試合で
大差をひっくり返す大逆転の奇跡を何度も観てきた
むしろ、うちの場合子供たちが
「もうムリだよ」という
諦めが早いというか、ドライと言うか、冷めているのだ
ボクが「いや、奇跡は起きるよ、信じれば」というと、大逆転が始まる
ボクは預言者なのだ(W)
一番すごかったのはプロ野球の巨人戦
巨人の試合史上もっとも大差をひっくり返した試合の球場にボクと次男はいた
出てくるジャイアンツの投手が次から次へとボコボコに撃たれまくり
10点以上の差がついた
次男が「つまんない、帰ろう」とダダをこねたので
後ろ髪ひかれる思いで球場を後にした
帰りに車の中で「あのあと巨人が逆転するはずなんだけどなぁ」というと
「そんなことあり得ない!奇跡なんか起きない!」と次男は言った
が
途中立ち寄ったラーメン屋のテレビに映る巨人戦では
その後巨人打線が大爆発して
巨人史上大差の逆転劇を演じていた、、、
1930年頃のデンマーク。ボーエン農場の家長モルテン・ボーエン(ヘンリク・マルベルイ)は、妻に先だたれたが3人の息子や孫たちにかこまれて悠悠たる老境を過ごしていた。彼は一代で農場をたて、信仰心あつく、人々の信頼を集めていたが、信仰が奇跡をもたらすと信じる彼を冷笑している者もいた。長男のミケル(エミル・ハス・クリステンセン)は神を信じようとはせず、次男のヨハネス(プレベン・レルドルフ・ライ)は神を信じすぎ、自分をキリストと信じていた。三男のアーナス(カイ・クリスチャンセン)は、モルテンとは宗教で対立する仕立屋ペーター(アイナー・フェーダーシュピール)の娘アンネ(ゲルダ・ニールセン)に恋していた。モルテンにとって、救いはミケルの嫁で、2人の孫娘の母であるインガ(ビアギッテ・フェザースピール)だけだった。インガはボーエン家のささえで、夫と養父の対立を気づかい、今生まれようとしている3人めの子供がモルテンの願い通り男の子であることを祈っていた。彼女はモルテンを説得して、アーナスのアンネへの求婚を認めることに成功するが、ペーターはこれを拒絶した。怒ったモルテンがアーナスの家のりこんだ頃、ミケルが電話で、インガが産気づき、母子の生命が危い難産になりそうなことを知らせてきた。ヨハネスの不吉な予言通り、一時、助かると思われたインガは子供ともども死んでしまう。悲しみにつつまれたインガの葬式。ペーターはアンネをつれて和解を申し出た。インガの枢のふたが閉じられようとした時、奇跡が訪れようとしているかのように、正気に戻ったヨハネスが帰ってきたのだった。
やっと本題
ドライヤーの<奇跡>を
奇跡を信じない冷めた次男が観て、いたく感激し、興奮していた
そういえば
ボクも観た当初は大変好きだったのだが
今ではあまり物語を覚えていない、、、
ボクは
映画のストーリーをすぐに忘れる
すごく好きな映画でさえ
他人に詳しく物語を伝えることができないことが多々ある
その映画が「すごく良い映画」とか「大変好きだ」とかの印象だけが残り
ストーリーで映画を記憶しないのだ
そして記憶として残るのは
印象的なショットやシーン
画としての記憶だけがボクの脳裏に残るのだ、、、
たとえば絵画とか写真には
何の説明もない
それを見た人は何かを感じ
人によっては物語さえ浮かび上がるかもしれない
絵画と写真は印象によって
見る人の感情を揺さぶる芸術なのだ
すべてを観るのに1時間半以上の時間を要する映画では
その中から自分にとっての印象的な画だけを折りたたんで
記憶にとどめておくのがボクにとっての映画なのかもしれない、、、
(っていうか、単に老化による記憶力の低下)W
ドライヤーの<奇跡>を
ボクは宗教に身を包んだ重苦しい姿をした「ホームドラマ」だと言ったら
次男は典型的な「ジュブナイル」ものだと言った
<三十四丁目の奇蹟>のように
サンタを信じる子供には奇跡が起こる「ジュブナイル」もの、、、
大人は何ものにも代えられない信仰心をもっていながら
奇跡を信じていない
それは心底では神を信じていないと等しい
だが
子供は母親は必ず生き返ると奇跡を疑わない、、、、
キリストのような風貌の次男は
宗教にのめりこみ過ぎて
自分こそは預言者であると信じているので
周囲の者は「気が狂っている」と相手にはしない
ところが
奇跡は必ず起きる、死んだ母親は必ず生き返るという次男を
死んだ母親の次女だけは信じて疑わない
最初
娘は画面の上手(かみて)に配置されているが(次男は下手)
徐々にキャメラが回り込み
ふたりの位置が逆転する
そして更にキャメラが回り込み
再び二人の位置が変わる
映画では
上に位置する演者が
そのシーンにおける優位な位置とされている
もしくは「正しい」側の位置
このシーンの場合
最初、無垢な少女が上で、気狂い次男が下にいる
ところが二人は語り合っているうちに立場が逆転した
上には神のような存在の次男、そして下手にそれを信じる少女
更に位置が逆転するのは
次男よりも少女が神を信じる(奇跡を信じる)力が上回った瞬間なのだ
(と、うちの次男が説明してました)W
そしてラストは
死んだはずの娘の母親を
正気に戻った次男が蘇らせるのだが
はたして次男が奇跡をおこなったのだろうか?
いや、それは違う、
その奇跡を起こしたのは、あくまでも神であり
それを強く信じ続けた娘の祈りが奇跡を呼んだのだ
大人たちは
同じキリスト教でも宗派の違いで憎しみ合っている
大人が信じているのは宗派であり
真の信仰心でも、神でもないのだ
神の行う奇跡を
こんなにも分かりやすく具現化した映画をボクは知らない、、、
P.S.
また、この<奇跡>ではパーンを多用している
パーンって難しい手法だと思うだけど
ドライヤーがやると幾通りもの的確な使い方を示してくれる
そのことは記録しておく
P.S.
ドライヤーは神を疑うことこそが「信仰の不在」と言いたいかのようだ、、、