たふえいんといなあふ 不思議な魔法の言葉 

No Movie, No Life、、、映画と食べものと、ときどき天然妻、、、

Twitter(X)ダーティハリー論争、ニューシネマとは、、、

メチャクチャな犯人とダメダメな刑事のポンコツ頂上対決? 『ダーティハリー』を初めて見た – OHTABOOKSTAND

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北村女史が<ダーティハリー>をケチョンケチョンに評したのは

60~70代のジジイの思い入れを煽る

あまりにも愉快犯的な発言だが

案の定まんまとジジイ等は反発し

まんまと寝技に持ち込まれてしまい

珍しく冷静を装い町山まで登場してしまう始末、、、

 

で、

 

toughy.hatenablog.com

「何者」、、、PM奮闘篇その1 - たふえいんといなあふ 不思議な魔法の言葉

 

以下、上リンクからの抜粋

ボクにとっての<ダーティハリー>は黒沢清

 

そんな忙しい日々を送っている頃、新しい仕事の打ち合わせで、ディレクターを紹介された、それは映画監督の黒沢清だった、、、彼は黒の上下のライダーズスーツに黒いメットを被って、大きな単車を走らせ現れた、、、ボクの会うまでの黒沢清の印象は大人しくクールな人だったので、バイクとかライダースーツは意外だった、、、そして話し始めると、よく喋る人だったのも予想外だった、それでも興奮して話が止まらないようなタイプではなく、あくまでも「語る」雰囲気があった、、、はじめての打合せでは<ダーティハリー>の話を盛んにしていた、どのシーンの何はどんな効果があったとか、映画における「黒」について持論を展開していた、ただそこにある「黒」つぶれた「黒」ではなく、ドンシーゲルの「黒」は、きちんと「黒」として存在して撮られていると、、、//
この辺に関しては後から思えば蓮實御大からの影響と思われるが、

 

そもそも<ダーティハリー>は単なる娯楽映画とみられていたものを

後年、蓮實氏がその芸術的な側面や映画としてとても優れている部分を解説して

とても高い評価を下したことで確固たる名作の地位を築いた

だからもはや誰もが論破することが出来ない領域にあったのだが

今回、煽りにしても北村女史が確信犯的に一石を投じたわけで

それはそれで馬鹿げているが面白い、、、

 

もう一点「(アメリカン)ニューシネマ」について

ダーティハリー>はニューシネマの時期に

たまたまドンシーゲルがイーストウッドと撮っただけの

破天荒な型破りな刑事(デカ)モノなわけで

シーゲルやイーストウッドにニューシネマの自覚はないはずだ

 

そもそも「ニューシネマ」の定義とは

60年代後半から10年間ほどの期間に米国で作られた

スタジオの意向に縛られない監督の意思を優先した作品

*主人公が反体制的

*社会に対する鬱積した感情や状態

*ほとんどをロケに頼る撮影スタイル

*ほとんどがバッドエンディング

*多くがローバジェット

こんなところが特徴だ

 

なので

2001年宇宙の旅>や<スターウォーズ><地獄の黙示録>を入れるのは間違っている

それはたまたまニューシネマが作られていた時期と時期が同じなだけの

ハリウッドニュームービーでしかないからで

ブロックバスターと呼んだ方が聞こえがいいかもしれない

スピルバーグの<続・激突!カージャック>はニューシネマで<ジョーズ>や<ET>はブロックバスター)

 

だからね

ジジイ連中の思い入れだけで成り立っている言葉ではないんだよぉ~

 

ま、今回のことは

北村女史の炎上目当ての煽り発言だと思うが

確立されたものに一石を投じることって

再評価にも通じるから大変面白く

ある意味、意義のあることでもあると思うよ、、、