たふえいんといなあふ 不思議な魔法の言葉 

No Movie, No Life、、、映画と食べものと、ときどき天然妻、、、

埋もれがちな傑作/きちがい部落

 

タイトルを知らされずに見せられたら川島雄三と見間違うだろう、音や音楽の付け方、ナレーションの起用、重悲喜劇、まさに川島、、、深刻なテーマを時にユーモラスに、そしてシニカルに描く渋谷、今作に限っては終盤笑いは消え、かなり重いものになっているが、とくに一家の太陽でもあるまだ19の長女の亡骸を一家三人でリアカーで運ぶシーンが胸を打つ、そして駆け寄る傘を俯瞰からのショット、胸が苦しい、、、

 

今ではバイプレイヤーとか言うけど、総じて線が細くて存在感が薄っぺらい(演技はそこそこ上手いかも知れないが)、(ほんとうは脇役に存在感を求めてはいけないのだろうが、たいがい存在感のある脇役が出ている作品は良いものだ)昔は良かったなぁ(本当に良かった、あえて大声で言いたい)演技も巧く存在感があり、キャラが濃い、今の時代の人の中では誰も思い浮かばないような、足元にも及ばないような芸達者たちが揃っていた、、、

 

村八分の話し、、、本来は他は無しでも、火事と弔いごとだけは付き合うはずなのに、頭を下げてまで手伝いはいらないと突っぱねる淡島千景がいい(ただし百姓には見えない)、、、

 

そのタイトルだけになかなか動画配信やソフト化がままならず埋もれがちだが、禁句促進運動家を喜ばすだけの禁句はやめた方がいい、結局こんな良い作品が簡単には観ることもできなくなる訳だ、、、禁句に代わる言葉が宛がわれても、結局そのうちそれも禁句になる、使う方に差別の意識がある限り永遠に禁句首のスゲ替えは止まらない、、、そもそも禁句なんてもんは禁句である必要がない、その状態の人を表して当てた言葉であるだけなのだ、、、たとえば「障害」ってものはある、その言葉は必要だ、人の障害については目を伏せない限り目の前にある訳だし、目を伏せる必要もない、伏せたり無いものとしようとすること自体(またそうしようと意識している人の存在自体)が差別なのだ、、、目〇ら、つん〇、びっ〇、字を伏せること自体が差別に感じる、そしてそれを排除しようとすること自体が差別に感じる、普通に常識としてそういう人達にそういう言葉は使わない、もしくはしないようにエチケット感覚で心がければ良いだけのことなのだが(それが出来ない人たちがいる)、、、そして何より、そういうことにすぐにイチャモンを付ける人たちに屈しないことがもっとも大事だ、、、十通りも百通りも人によって考えが違うのに、自分の考えを強引に通そうとする輩がいるから社会がおかしくなる、、、

 

児童映画を見たい! 凄いタイトルの映画 「気違い部落」

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