「名作」評価は時代と共に変わるけど、本当の名作は、いつの時代に観ても、何度観ても名作なのだ。
「リアルタイム」映画は基本リアルタイムで観るべき。制作されたその時代の社会情勢や価値観、空気を感じながら観るべきもの。それを理解せずに語るのは無礼で卑劣なのだ。
「意味」監督が用意したスクリーンに映る全てのコト/モノに意味があり、それを読み解く読解力が映画鑑賞には必要だ。(ミステリーの謎解きや物語の意味ではない)
「優位性、独自性」映画よりも先行して世の中にあった芸術(文学、絵画、音楽、演劇、写真)たとえば文学では言葉があり物語や思想があるのだから、映画はその点では劣るのだ、だから映画に物語性を優先して求めてはいけない。限られた空間の中で演技をぶつけ合い繰り広げられる演劇にも、それじたいなら映画は劣る。だから映画は映画の独自性、優位性で表現するもの。
「モーションピクチャー」ほかの芸術には欠けている優位性、視覚的で、言葉で説明せずにも観客に伝わる、編集一つで意味が変わり伝わり方を変えられる映画ならではの表現方法。連続する動きと連続するカットの連なりにより、セリフや説明が無くても観客に伝わるのがモーションピクチャー(活動写真)映画の独自性であり優位性だ。優れた作品はセリフがなくても演技とカット割りで伝わる、それがモーションピクチャーだ。
「インスパイヤー」何かに影響を受けずに成立している映画はない(リュミエールを除く)すべての作品が過去の何らかの作品とつながっている。手法、技法、作品、監督、技術者、はじめてそれをオリジナルとして生んだ先人たちに対する敬意がなくては非礼で卑怯だ。「真似た」より「真似された」方が立派なのは言うまでもない。先人たちに手を合わせてから真似よ。
「つながり」それだけでは決して存在しない、それだけで存在する作品はない(リュミエール以外)全てはがつながっているのだ。時代も場所も違っても、まるでそれらは時空を飛び超えて、まるでファミリーツリーのように、動物の系統樹のように常に何かが何かに影響され、誰かが誰かに触発されて新しいものが生まれていく。だから古い映画を否定することは出来ない。昔の映画を否定すれば、それは今を否定することになるからだ。映画は過去と今が密接につながって切れない系譜なのだ。
「3要素」演技、気の利いたセリフ、印象的な画、この3つが揃っているのが優れた作品。
「脚本」気の利いたセリフ、意表を突く展開、観客の感情に訴えるドラマ。
ダメな「原作もの」は原作のストーリーをただただ追って描くもの。優れた原作ものは監督の独自のアプローチがある、映画的なアプローチ。そうでなれば映画は文学の「映像化」でしかなくなる。あくまでも目指すのは「映画化」なのだ。
「画」奥行きのある深い画、凝った構図の美しい画、光と影が強調されるコントラストのある画、演者や物の位置が考えられ配置された画、キャメラワーク、撮影技法、特殊効果、移動撮影、俯瞰、煽り、ローアングル、ローポジ、ロング、クローズアップ、長回し、ドリークレーン、手持ち、空撮、逆光、長玉望遠、パン、ズーミング、スローモーション、ストップモーション、オーバーラップ、フェイド、フレームいっぱいに被写体が密集する狭い画、構図によって作られるタテな画、、、
「選択」優れた作品は余分な尺を使わず巧く省略すべきところは省略して、何を映し、何を見せないか、それを判断するのが監督、何が必要で、そうでないかを選択するのが監督の力。
立派な作品には「見せない」テクニックがある。優れた監督はストレートには映さない、見せない見せ方、映さなくても観客に伝わる演出、観客がイマジネーションで埋めるからだ。必要なもの、必要でないもの、出来れば映さないもの、ぜったいに映すもの、監督の重要な選択肢だ。
「編集」映画は連続する画のつながり。つなぎ方次第で伝わり方や意味が変わる。
「フィルム」と「デジタル」デジタルを綺麗という、クリアでリアルで美しいという、しかしボクには実際に近い映像がウソ臭く感じる。フィルムはキャメラマン、ラボ、フィルムによって色調画調が異なる独自性があり、深く、味があり美しいと感じる。
「再現性」ロケーション、セット、衣装、大道具、小道具、ヘアメイク、作られたものでありながら実際のようにそこに存在するかのように見せるのが映画。リアリティと再現性は必ずしも一致しない。
「演技」演者の眼の先に見えているもの、的確な監督の指示と役者の演技技術。
与えられた条件で、観客のために撮るのが「職人監督」条件は無視し、自分の撮りたいように撮るのが「映像作家」
「テレビと映画の違い」テレビはタダ、片手間に観る人もいる、映画のように金銭を払ってスクリーンに向かって凝視はしない。映画は観客が見つめている前提で撮られているから余計なセリフがなく、観客は演者の表情から読み取ったりもする。テレビで映画と同じようにやったら「難解だ」と思う人がいるかもしれないし、離れた場所から片手間に観ている人がいるかもしれないという前提にたって「僕は悲しい」とわざわざセリフで言わせることになる。だけど、現実社会でそんなことを言う人はいないし、反対に映画の本編中でそんなセリフを言わせる監督がいたら監督失格だ。
「語り」同じ話を喋るにしても、訊き手を引き込むように上手に話す人と、ダラダラと棒読みのように話す人がいるように。それと同じように強弱をつけ、テンポよく、起伏を付けて観客を引き付ける監督が語りの巧い監督。(たとえば、ダグラスサーク、成瀬巳喜男)
「起承転結」かならず配分されるが、結に関してはラスト20分。