人は時として「オーマイゴッ~ド!」と叫ぶ
「神よ、なぜですか!?」
英語で叫ぶことがない日本人でも
「なんでこ~なるの!?」と、
神を恨むことはなかろうか?
無宗教のボクでも
毎日のように襲い掛かる困難に対して
天を見上げしばしば神を恨む
なぜ神は
我々にこんなにも苦しい試練を与えながら沈黙したままなのか?
神の不在、宗教、信仰に対する疑問
無宗教の人でも誰でも考えたことがあるはずだ
目の前の他人(ひと)の「命」と引き換えに
「棄教(信仰を棄てる)」できるのか?
信仰を貫くべきか?それとも人の命を救うべきか?
究極の選択
これが
この小説を読む人の魂を揺さぶり引き付ける理由だ
この原作をスコセッシが初めて手にしたのは約30年前
自身の新作<最後の誘惑>がキリスト教会から非難を受けていた頃
唯一擁護してくれた司教から
「宗教を描くならこの日本の素晴らしい小説こそ描くべきです」と渡された
スコセッシにとっては、映画化すべき宿命であったのだ
戦後日本文学の最高峰ともされ
ボクの一番好きな日本の小説であり
スコセッシが監督したこの作品なら観ない理由がない
初日一番の回で観た
初日一番の回で観た
ポップコーンを口に運ぶ音さえもはばかれる
重い空気がスクリーンを支配する
ほとんどBGMとしての音楽は流れない
重苦しい3時間弱だったがまったく長さを感じない
映画はありがちな「ヘンテコな日本」の違和感は一切なく
落ち着いて観ることができる
撮影は台湾で行われたが京都の時代劇のスタッフが参加し
スコセッシは彼らに任せたようだ
イッセイ尾形、窪塚は
ボクが思う原作のイメージとは違ったが納得できた
スコセッシのイメージが正しい
スコセッシのイメージが正しい
窪塚の役は原作では
もっと醜悪で薄汚いこれっぽちも同情の余地のないキャラだが
映画では窪塚にはどこか憎めない雰囲気も漂っていた
窪塚の役キチジロウは軽蔑に値するが誰も責めることはできない
というか、このキチジロウこそが大方の「人間の姿」かもしれない
だから、愚かだが、誰も責めることはできない
終盤
主人公が窪塚と江戸で再会する以降が原作と違う
しかしむしろ原作よりも解りやすく
スコセッシが付け加えたラストは納得のゆくものだった
こういうラストでないと
ハリウッドでは受け入れられないという理由も
そこらへんはスコセッシだからしっかり理解しているのだろう
途中
日本映画の影響がうかがえる数々のシーンや構図がある
過去の日本映画へのスコセッシなりのオマージュ
キリスト教だけでなく世界中の宗教、信仰というものに対して
今だからこそ問いかける意義のある深い作品だ
神は沈黙しているが
自分自身で聞こえない声に耳を傾け
苦悩し深く自問自答し答えを見つけること
それが沈黙する神の答え
あなたは
心底信じていたものを棄てられますか、裏切れますか?
PS
ちなみに
マーチンスコセッシが自身の作品で
企画から制作、脚本、監督すべてを責任を持ってやりとげた作品は
たった3本しかない
そして、この<沈黙~サイレンス>
PS 追記
教会といっても正面の壁しか残っていないが
そこは迫害を受けた日本人キリシタンたちが逃げ隠れた場所だ
壁には「徳川家」を表現した獣が彫られている
壁には「徳川家」を表現した獣が彫られている
ほかにも迫害が表すものが、、、
何の知識も持たず夫婦でそこを訪れ
地下の部屋に足を運んだ時
妻がいきなり号泣した、、、
「どうしたの?」
「なんだか分からないけど、急に涙があふれた、ここで悲しい出来事を感じたの」
とくに霊感が強いというわけでもない妻だが
このときばかりは何かを感じたようだ、、、
のまちゃんへのコメント
この映画は「宗教」もそうですが、日本の官僚主義的の恐怖も感じますね、、、浅野だったりイッセーだったり、恐ろしい官僚ですよ、じかに本人を殺さず、「オマエが転ばなければ周囲が死んでいく」と迫り責任を主人公に押し付ける、それを「仕事だから」「この国のルールだから」仕方がないと口にする、人の生死を「仕事」だから仕方ないといい正当性を訴えるなど人間のエゴ、保身、事なかれ主義、これこそが恐ろしいことなのです、、、