たふえいんといなあふ 不思議な魔法の言葉 

No Movie, No Life、、、映画と食べものと、ときどき天然妻、、、

淀川長治さんは良かったなぁ

ネット時代になって
一億「総評論家」時代になっちゃって
ちょっと映画見ただけで
評論家のように語っちゃう人たちが溢れていて
 
それぞれの感想なら
それはそれで勿論良いのだけれど
 
トンチンカンな
的外れなことを書いてる人や
 
長々とあらすじを書き綴り
まるでそれがコメントかのように
作品紹介で終わってしまう人や
 
難しい映画を観て
自分の理解できない未熟さをタナに上げ
その映画を良いとする人たちを
「理解したふりをしているだけ」「監督権威主義だ」「通ぶってる」とかで片づけて
勝手に納得している人が凄く多くて
(とはいっても、ボクもガキの頃はそう思っていた)
 
そういうレビューを見ると
目を覆いたくなるやら、笑うやら
 
だいたい「通ぶる」ために
わざわざ金と時間浪費して難しい映画ばかり観る?
そこに何かを発見したり、何か魅力を感じるものがあるから観ている訳だ
 
だから「通ぶってる」と云う人がいたら
ああこの人は「分かってないなぁ」「自分が分からないもんだからそう言うしかないんだなぁ」と確定することにしている
 
 
「映画評論家不要論」っていうのも
昔から根強くあるけど
 
評論家っていうのは
映画が好きな人には絶対に必要で、
 
好みのあう評論家のお勧めの映画を観れば
無駄な時間と金を使わないで済むことにもなるし、
 
野球評論家の奥の深い話をきいて
思わず感心してしまうことと同じで
良い評論家は映画の見方を教えてくれる、、、
 
ま、
最近は
そんな奥の深い話を出来る評論家が
どれほどいるかは疑問ではあるが、、、
 
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子供の頃
月曜日の夜8時になると
ラジオの前に座り
淀川さんの声が聴こえてくるのを楽しみに待った
 
淀川さんは表現力が豊かで
その話から
まるで目の前で映画が
上映されているのではないかとイメージできるほどで
観る機会もない古い映画を言葉で再現した
 
それは
ただ単にストーリーを語るのではなく
役者のアクションや表情
ディテールやカメラの動き、構図を伝えることで
聴き手のイメージを膨らます
 
淀川さんは
ほんとうの意味での映画の先生だったから
 
「映画のスクリーンに映っている全てに意味がある」
「優れた映画は言葉や文字を用いなくても観客に伝えることが出来る」と教えてくれた
 
映画は国語の文法のようなものだから
どのようにその作品の意図を読み解くか
 
どんな演出テクニックを用いて
観客を、感動させ、泣かせ、驚かせているかを教えてくれた
 
映画以外の芸術や文化や歴史などの知識や教養から
美術や音楽や衣装など映画に関わるさまざま役割から
作品を深く知ることを教えてくれた
 
だから
映画以外の色々な知識を身に付けないと
映画の本当のことが分からないのだから
「常に勉強しなさいよ」(学校の勉強とは限らない)と
淀川さんは云っていた
 
映画の観方を教えてくれるのが
真の秀でた映画評論家だと思ふ、、、