たふえいんといなあふ 不思議な魔法の言葉 

No Movie, No Life、、、映画と食べものと、ときどき天然妻、、、

小説/Xとのこと(1)ガラス越しに消えた夏


 東を真正面に向いて車を走らせている僕は、朝日が東京の小さな空を形成するビルの隙間からちょうど顔を出した数分間、その日差しの強さに前方を失う。サンバイザーに折りたたんで引っかけていたサングラスを慌てて装着し、そのままサンバイザーを下ろしたが、フロントガラスに刺す強烈な光から逃げるのは簡単ではなかった。

 こんな朝が、あの晩から約一か月続いている。彼女の部屋を出て朝日に目を細めながら家に帰り、軽くシャワーを浴びて着替えると大学に愛車で向かう。変な赤い色のパルサーだ。ひととおり講義に出席すると、夕方からバイトがある。毎晩、大船にある撮影所にフィルムを運んだり、受け取ったりするのが僕の仕事だ。いったい僕は東京と大船を何度往復したことか!先日何十年ぶりかに大船の近辺を走ったら、渋滞で悪名高かった「原宿(東京ではない)」の交差点の下にアンダーパスができていて驚いた。撮影所にも行ったが、湘南の海に向かう時もこの交差点を使うこともあったし、ある晩鎌倉の山に向かって猛スピードで駆け抜け左に急ハンドルを切ったこともあった。今のように高速道路網が発達していない時代だったので誰かと鎌倉方面まで行く時はその交差点を左折するのが常だった。

 話はそれたが、東京と大船を往復すると僕のバイトは終わりとなる。仕事の車から自分の車に乗り換えてXの部屋に向かう。一旦、彼女のアパートのそばに路上駐車すると(昔はコインパーキングも少なく路上駐車は当たり前)、駅の方の商店街に歩いて向かい。その晩のおかずを買ったり、味噌汁の具になりそうなものを買って部屋に行く。そんな毎日を僕は繰り返していた。

 あの晩以来ずっと。

 

 あの晩の翌朝、気づいたら聞きなれないアラーム音を不快に感じて見知らぬベッドから降りた。

 ツツーツツーツツー。。。

 見慣れない目覚まし時計、時間を表す数字の表示部分がパタパタと刻をめくる。(当時はそれをデジタルと思っていたが、今あらためて見ると思い切りアナログだ)時計の上部のボタンを押して止め不快な音から逃れる。不慣れな部屋のシングルベッドには昨夜初めて会った女が薄目を開けてこっちを伺っている。女の名前は今では忘れてしまった。なので、これからはXと呼ぶことにする。

 

 あの晩は、高校時代の友人の潤と歌舞伎町にいた。最初は10人ほどで飲んでいたのだが、深夜になる頃には僕と潤だけになった。潤はどちらかというと硬派で、女の話になると発言せずニヤニヤ笑って話の聞き手に徹するタイプだが、その晩はオスの狩猟本能にでもスイッチが入ったのだろうか

 「H、ナンパしようぜ!」と思い切り積極的だ。

 

 この頃の歌舞伎町は小走りに靖国通りを渡り終電の駅を目指す人々で大勢になる時間帯だ。まだ信号が変わらない靖国通りを背にして歌舞伎町を向いていれば、まるでボラの群れがこちらに向かってくるように見えるからおかしい。網を放てば間違いなく獲物を捕らえることができる。そろそろ終電もなくなるこの頃はナンパの成功率も上がる。声をかけた男が良ければついて来るし、相手がこっちを気に入らなければ終電を理由に女たちは断るのだ。アルコールの血中濃度の濃い女ほど走るのをやめたい衝動に駆られ、声をかけられたことを口実に足を止めるのだ。そしてむしろ終電がなくなることを理由にしてこちらの誘いを受け入れる。

 Xも女友達と終電を目指してJRの新宿駅に向かっていた。どうやらアルコール血中濃度の高い口だ。声をかけると足を止め、話は早く片がついた。僕自身もかなり酔っていたのでどこの店で何時ごろまで飲んでいたかまったく覚えていない。潤とはどこで別れたのか、もう一人の女は潤と一緒に消えたのかも覚えていない。記憶を追えるのは、いつのまにかXと二人でタクシーに乗っていて、世田谷方面に向かっていたことだ。よく分からない場所でタクシーを降り、彼女についてアパートに入っていった。若い女の子には不釣り合いの薄気味悪い古いアパートだった。

 Xが鈴のついた小さなカギをGパンのポケットから取り出して南京錠の鍵穴に挿した。『え、南京錠!』と、思ったが、扉が開いてしまえば、南京錠のことなど、それどころか引き戸を閉めたかどうだかも忘れ、畳の上に彼女と倒れこんだ。彼女の紺のトレーナーを捲り上げ、Gパンを下ろすと、とてもスタイルの良い美しいフォルムの裸体が目の前に現れた。とても細い身体なのに胸だけはとても大きい。大きいのに垂れていない胸なうえに童顔なのでロリコン趣味のフィギュアのようだ。僕も急いで裸になり、彼女の肌と肌を重ねたいと慌てたが、彼女が制して立ち上がり何処からかコンドームを取り出し持ってきて僕に渡した。酔っているせいか、受け取ったゴムがなかなか装着できなかったことは覚えているが、とても大切なその先の記憶が薄い。暗がりの中で交わったのは確かだが細かいことを覚えていない。気づくとアラーム音に起こされ、全裸の身体を起こした。おそらくゴムが包まれているのだろう、丸めたティッシュがベッドの横に落ちていた。

 

 僕が何も言わず部屋を出れば一晩だけの関係で終わることにもなったが、

 「夜はいるよね?」と僕は尋ねてしまった。

 裸をタオルケットで隠しながらようやく体を起こしたXが

 「バイトは9時に終わるから、9時30分には部屋に戻っている」と言った。

 

 彼女が、再び僕がここを訪れることを望んでいたかは判らない。それでもその晩僕は再びここを訪れた。部屋に向かう途中、他の部屋の住人らしき男とすれ違った。20代だと思うが、無精ヒゲで、だらしなく腹が出ていて、買った当初はきっと白かったであろう今では黄ばんで首元が伸びきったTシャツを着ていて、すれ違う見慣れない僕を二度目した。

 彼女の部屋の引き戸をノックすると、すぐに開いて、目の前に彼女の笑顔があった。玄関の脇の台所で何やら料理をしていたのだ。世田谷のとある小さな町の4畳半の畳の部屋。靴が2つも並べば3足目は置くことも出ないほどの狭い玄関の真横に、一旦そこに立ったら調理が済むまで足を動かすことが出来ないガスコンロ一台だけの小さな台所がある。足を動かそうものなら、おそらく玄関に片足をついてしまうだろう。

 部屋を唯一照らすのは、10年前なら時代に似合ったはずの裸電球が1ツだけ。トイレとシャワーは共同だそうだ。しかもどちらもアパートの棟の外にあるから雨の日は厄介だし、それ以前にとても不気味なのだ。住人に女は彼女だけ。彼女以外全員男が暮らしているのだから、非常に危険な状態に置かれていると僕は心配になった。獣たちの暮らす谷にピンクのテントを張り、細い体、くびれたウエストに大きな乳房の牝豹が身体を丸めている姿を僕は彼女に重ねてイメ-ジした。

 

 白いごはんと豆腐の入った味噌汁、キャベツと豚肉を味噌で炒めたものがちゃぶ台に並んだ。それだけでスペースが埋もれる小さなちゃぶ台で、缶ビールから互いのコップにビールを注ぎ何も言わずグラスとグラスをカチンと重ねた。彼女はニコニコしながら箸を動かす。僕の顔色をうかがっているのはきっと料理を心配してのことだろうと察して

 僕は「美味しいね」と言って笑顔を作った。

 「そう、良かった」と彼女も照れ笑いをした。

 

 「そうだ、味噌汁の作り方教えてくれよ。俺が先に帰ってきたら、ごはん炊いて、味噌汁作って待ってるよ」

 僕のこの言葉から二人の同棲生活が始まった。

 そして、彼女はその返事として鈴の付いた小さな南京錠の鍵を黙って僕に渡した。

 

 彼女が口にした名前は時々テレビにも出てコメンテーターもしている有名なフォトグラファーの名前だった。それがXの父親なのだそうだ。父親が再婚したのを機に彼女は家を飛び出した。グラフィックデザイナー志望で今は近所の喫茶店でバイトをしながら専門学校に通っている。学費は親が学校に払っているが、その他の生活費は一切自分でまかなっている。親と連絡をすることも全くないと言う。父親には学費以外甘えたくないから、だからお金がないから、こんなアパートに住んでいるのだと意地強な性格を感じさせる表情で彼女は話した。

 

 そのときも不動産屋は何度も念を押したそうだ

 「あなたの他に女性は住んでいませんよ」と、

 それでも彼女には家賃の安さが魅力だった。

 「共同便所、共同のシャワー。あ、近所に銭湯がありますよ」

 「共同シャワーで十分です」とXは答えた。銭湯のお金さえ惜しいのだ。

 不動産は目を丸くした。

 

 「周りが全員男で、共同便所とか共同シャワーとか怖くないの?」と訊ねてみた。

 「うん、トイレやシャワーに入ると何か人の気配を感じる気がするの」

 「おいおいおい」

 「実際、人なんていないと思うけど、そんな気になるの。お化けなんていないのに、なんかいやな気配を感じるのと同じだと思う」

 「いやいやどうだろう、俺には生きてるお化けのような気がするぞ」

 

 僕はトイレに行く振りをして、トイレとシャワーの周りを慎重に点検した。どこかに隙間があって中が覗けるようになっているのではないか、もしくは意図的に穴を開けた跡がないかと点検した。トイレは木で出来ているのだ、幾らでも細工が出来そうだ。しかし、その場では怪しい形跡は発見できなかった。

 

 「あ、そういえば、共同の洗濯機もあって。ソックスが片方なくなったことがある」

 「なんでよりによって片方だけソックス?なんでパンティじゃないんだ!」と僕は口走った。

 「パンティならいいけど、ブラジャーなら頭にきてるわ、ブラジャーは高いから」

 そういえば、彼女は普段あまりブラジャーを着けない。大きな胸がそのうち引力によって垂れてしまうのではないかと心配だ。

 「でもね、あとで、落ちてるソックスの片方見つけたの」と言って彼女は笑った。「誰かを疑ってはいけないね」とも。

 僕にはそれに付き合って笑うことは出来ない。むしろ周囲の男たちを疑って慎重に行動してほしい。女は度胸がいい。僕が女ならここではおちおち熟睡も出来ない。いずれにしても女子が一人で暮らすには安全とはいえない場所だ。

 

 そういえば彼女が父親の名前を言ったが、それ以上説明しなくても多くの国民がその父親のことに関して詳しい。僕もたまたま雀荘に置いてあった雑誌フォーカスで読んだことがある。売れっ子の女優と不倫の末、Xの母親と離婚し、その女優と再婚し、その時に買った新居の写真と共にそのスキャンダルが報じられていた。新居は当時話題になった億ションで、山の地形を生かしてケーブルカーのようにその山肌の斜面に沿って上り下りするエレベーターがとても未来的な形状で印象的だった。彼女はそのマンションには暮らさなかったそうだ。父親の世話にはならないと決心して娘は家を出て、こんな生活を送っていた。

 

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