ボクがまだ
チンチンに毛も生えていないガキんちょの頃
日本が異様なほどのエネルギーを発していたのは
ガキのボクでも感じ取ることが出来た
日本全土を包む
学生を中心とした若者たちの熱
そんなエネルギーに対して魅了されることさえあった
この映画は農家の倅の小川伸介が監督だから
尚更パワーを感じるのだろう、、、
でもね
記録映画、ドキュメンタリーといえば
どちらかに寄らない、何かある方向に導こうとしない
そこにある光景だけを冷静に
ありのままに見せるように努め
観客の眼で判断させるべきである、、、
マイケルムーアや小川伸介は
意図してある方向に観客を導く、いい意味では告発型であり
フラハティや原一男は
現実の姿を追って判断を観客に任せるタイプで、理想的だ
だから<日本解放戦線シリーズ>のような
こういう作風のものは半分冷めた目で、どうしても見てしまう
左の連中が
成田空港建設を巡って
反対派の農家の人たち(実は反対派は少数派)と共に
権力と戦っている姿を映し出す
でもね
権力は成田の農地にはいないんだよね
権力は永田町にいるんだから
そこにいるのは
仕事としてそこに来ている公団、警察、機動隊の皆さんたち
測量しようとする人
その妨害をしようとする連中を排除する人
過激な場合は逮捕しようとする人
みんな仕事として仕方なくココに来ている
この人たちが
もしもプライベートなら絶対にこんなところには来ない人たち
仕事だから仕事としてココに来ているだけ
そんな人たちに
詰め寄ったり、石を投げたりしても根本的な解決には辿り着かない、永遠に
例えて言えば
注文の多いクレーマーな客に対して
自分を抑えて我慢している給仕係のようなもの
仕事で仕方なくやってる人に
怒ってみてもしょうがない
「工事がうるさい!」と
警備員のおじさんに詰め寄っても仕方ないのと同じこと
むしろ、そんなおじさん達が可哀想
思想と思想のぶつかり合いでないから
イデオロギーは武器にはならないから
それでも、そこで戦いたがっているから
無駄にエネルギーが浪費される
(無駄にエネルギーを費やしたと思っていない人たち、ごめんなさい、
ただ、そう感じるだけです、感じるのは個人の自由ですよね)
仕事に来ているわけで
相手は別に戦いたいわけでない
闘いにきているわけでない相手とリングに上がるボクサーはいない
だから
一方的な戦争ゴッコになってしまう
で、
戦争って
一方だけがキレイに戦う戦争ってないから
(「キレイ」を「正しい」に置き換えることも可能)
そうこうしているうちに
自分の求める形にならないからイライラしだす
そして
より過激な方向に向かってしまう
そうなると
農民の目の奥に運動家達とは違う濁りが見え始める
いったい誰のための、何のための闘いなのか?
今の観客が
コレを観て共感するのだろうか?
だとしたら単純すぎる
(でも、当時は若者たちの血を熱くしたらしい、だから映画はリアルタイムで観なくてはいけない)
しょせん
農民と運動家は根本が違うのだ
だからこそ
小川伸介(農民と運動家の両方の血を併せ持つ男)だからこそ
これを撮る資格があるのだろう、、、