マヤ・デレン(Maya Deren、本名Eleanora Derenkowsky 1917年4月29日 – 1961年10月13日)は、1940年代から1950年代のアメリカの前衛映画作家であり実験映画家。また振付師、舞踊家、詩人、作家、写真家でもある。
1917年にウクライナのキエフで生まれ、1922年に一家はアメリカ合衆国ニューヨーク州シラキュースに移住した。父親の姓はDerenkowskyであったがこのときにDerenと短く改姓した。1928年にアメリカ合衆国に帰化した。1930年から1933年までスイスのジュネーヴにある国際連盟の学校に通った。
その後シラキューズ大学に進学し18歳の時に結婚した。ニューヨーク大学を卒業し1939年に離婚した。スミス大学で修士号を取得後、ニューヨーク州グリニッジ・ヴィレッジに戻り編集助手やフリーランスの写真家として活動した。
1942年チェコからの亡命中の映像作家、アレクサンドル・ハッケンシュミードと出会い結婚。翌年の1943年、マヤが26歳の時に二人の共同で映画『午後の網目』を制作する。この作品は1947年のカンヌ国際映画祭で実験部門のグランプリを獲得する。この年、ハッケンシュミードと離婚。
1960年、彼女の映画のスコアを担当していた日本人作曲家、伊藤貞司と三度目の結婚。
1961年栄養失調から来る脳内出血のため44歳で亡くなった。死の間際、アンフェタミンや睡眠薬を彼女は常用していた。彼女の遺灰は日本の富士山に散灰された。
1986年にアメリカ映画協会によってマヤ・デレン賞が設立された。(Wikiより転載)
女性の映像作家の先駆けであり
ケネスアンガーなどその後の前衛映画に多大な影響を与えた
とくに<午後の網目>と<陸地にて>が代表的な作品といえるが
その音楽に夫の伊藤氏を起用し
日本の雅楽風な音楽が作品にミステリアスな風合いを与えている
ハイスピード、コマ抜き、コマ飛ばし、オーバーラップなどの技術を活かした
実験的な映像とモンタージュ
ストーリーを追う映画ではないが
映像的なアイデアや面白いヒントが潜んでいる