話題の<ジョーカー>を観た
なに、結局ジョーカーって
ジョーカー誕生の秘密って
精神病患者だったってことなんだね、、、
精神病患者の現実と虚言戯言妄想を映像化した本作
精神病棟での夢語りに対して
観客は真実はどこにあるのか惑わされて
真剣に考え過ぎてしまって
ただの精神病患者に感情移入したり
肯定的に語る人まで登場してしまっている問題作、、、
存在を認められたいが埋没する個
一方、知らずに他を先導することになってしまう現代社会の危うさ、、、
この映画の
一般的な感想のほとんどが
「退屈はしないが、暗くて重くて嫌な気分で映画館を出る」
まったくその通りだね
映画に詳しい次男とは違う長男の感想も一般的な感想と同じであったが
こんなことも付け加えた
「でも、たぶん、映画に詳しい人なら別の部分で良さが発見できるんだろうなぁ」と、
一方映画に詳しい次男の方は映画を観るたび
「どこどこのショットは、なになにの映画からインスパイアされている」とか
「あのカットは、あの映画の引用」とか
「なになには、なにのメタファーだ」とか
「あのくだりは、あの映画のオマージュ」と
どんな一本の映画でも幾つもの映画の影響を受け模倣をしているわけだ
多くの人が
「たぶん、、、」と感じながらも
どこかで自分の分からないことへの価値の存在は認めながら
「暗いのは嫌だけど、映画としては良いよね、でも、きっとまだまだ良さがあるはずなんだけど、それがうまく説明できない」っていうのが<ジョーカー>なんだろうね
音楽が非常に重要な要素になっている
それを詳しく説明した記事を見かけた
さらにこの映画のことが分かった気がするので貼付けおく
https://virtualgorillaplus.com/music/joker-songs/
すで指摘されていることでは
この映画はスコセッシの
<タクシードライバー><キングオブコメディ>に影響を受けているが、
タクシードライバーと似ているのは部屋で銃を持つ佇まい、やたらと狭い廊下が再三登場するあたり、プシュとこみかみに銃で撃つポーズが度々登場するあたり、主人公がエキセントリックであるあたりなどなど
むしろ<キングオブコメディ>に強く影響を受けているように感じる
と、いうか、やはりデニーロだろうね
どちらのスコセッシ作品もデニーロが主役で
今回の役はどうしてもデニーロに演じもらいたかっただろうし
もしもデニーロでなければまったく違った作品になっただろうね、、、
さらにいえば主役のホアキンフェニックス
たしかにデニーロアプローチを実践して
一世一代の演技を見せただろうけど
この演技でさえ
<タクシードライバー>のトラヴイスであり
<キングオブコメディ>のパプキンであり
デニーロそのままであり
さらに言えば
ハリウッドの俳優が初めてハリウッド的な演技から
別のメソッドを導いたキャグニーに辿り着くわけで
エキセントリックな演技は
デニーロであろうと、パチーノであろうと、ニコルソンであろうと
すべて原点はキャグニーにあるわけで
だからキャグニーは偉大なわけで
それを日本人はリスペクトできていないんだけど
ホアキンはこの映画でデニーロ、そしてキャグニーにリスペクトしている
この映画の危うさは
観客によってはジョーカーを美化して受け止めてしまう事
現にうちの妻は
「ジョーカーって、結局、あの男(のちのバットマンの父親)の息子だったんでしょ」ってそういう風に解釈してしまって
ボクが「あのね、あのね、それだと漫画にならないでしょ、ドロドロの人間ドラマになっちゃうでしょ、韓流ドラマじゃないんだからね、漫画なんだよ、あくまでも核は善悪で分かりやすい対比しなくちゃいけないんだよ」
ところが
今の世の中、その善悪さえ人によって受け取り方が違ってしまって
それが非常に危ないことなんだけど
善と悪がハッキリ区別べきない人たちが多くなりすぎている
身近でこんなことをよく耳にするね
「盗まれたヤツが悪い」「いじめられる方も悪い」「騙される方が悪い」
完全に善悪が逆転している発想だよね
悪こそ善、善こそ悪
怖いね、怖いね、今の世の中、、、
まだまだ書きたいことあるけど、考えがまとまらないので、以下のようにメモして後に追記する、、、
シナトラ、アステア、イーストウッド
チャップリン(デニーロの過去作品よりも、ジョーカーはまさしくチャップリンではないか!)
カーペンターの<ニューヨーク1997><ゼイリブ>
殺人シーンの後の音楽の使い方が対位法
子供(のちのバットマン)の口角をあげてスマイルを強制するところは<散りゆく花>
いずれにせよ
ホアキンはオスカーの候補に挙がるかもしれないけど
よく言われている作品賞となれば、難しいね、、、
現代のトラウマ映画として後年も語られるかもしれないが
名作の座につくことには残念ながら、ないように思える、、、
3.5☺