夫婦愛と障害者の苦難を描く<名もなく貧しく美しく>
子供の頃観た時は
あまり感じなかったことが
この年になるとジンと迫って感じることの多い作品だ、、、
障害を持った夫婦の苦労と、そして結婚とは夫婦とはを問う、胸の苦しくなるような物語
主婦の秋子(高峰秀子)は幼い頃に病気で聴覚を失っていたが、ろう(聾)学校で手話を学び、人の唇の動きを見て会話することも出来た。戦争の末期に、秋子は空襲の焼け跡で赤ん坊を保護し、嫁ぎ先に連れ帰った。だが、冷たい家族は秋子の留守中に赤ん坊を孤児の収容施設に入れてしまった。
終戦後に夫と死別すると、秋子はすぐさま実家に帰された。母親のたまは優しかったが、姉や弟は出戻りの秋子を冷遇した。やがて秋子は、聾学校の同窓生である片山道夫(小林桂樹)と再婚するが、生まれた最初の赤ん坊は、深夜の異常な泣き声を聞き取れず、死なせてしまった。
秋子と道夫は路上の靴磨きで生計を立て、やがて息子の一郎が生まれた。道夫は印刷所に植字工として雇われ、秋子は裁縫の内職と育児に励んで、一郎は健康優良児として表彰された。しかし、小学生になった一郎は両親の障害を理由に、友人とトラブルを起こすようになった。
秋子の母親のたまは、秋子一家と同居するようになった。秋子の弟である弘一が身を持ち崩し、実家を売り払ったためだった。刑務所から出所した弘一は、たまが秋子のために買った商売道具のミシンと道夫の給料を力ずくで奪って行った。ショックから家を飛び出し、当てもなく列車に乗り込む秋子。しかし、追って来た道夫に手話で優しく諭されて、秋子は家に戻ることができた。
息子の一郎は精神的に成長し、友人たちに屈託なく母を紹介するようになった。貧しくとも幸せだと手話で語り合う秋子と道夫。家族で初めての旅行でもと話していた矢先に、不慮の事故で秋子が命を落としてしまった。妻を失い、絶望する道夫。しかし、道夫には息子の一郎という生きがいが残されていた。
「おし」「つんぼ」「かたわ」
いまやキーボードを打っても
そんな言葉は出てこない
字ごとこの世から抹殺されている
そして「障害者」という言葉さえ消え去ろうと、、、
そういう事じたいが差別を誤って意識させるように感じる
言葉を変えれば何かが変わるかのような発想、妄想!
言葉を変えれば人の心は変わるとでも思っていることへの疑問!
ほんの一部の誰かたちの自己満足で
こういう言葉狩りが進められているような気がして
まったく根本的な問題が理解されないような気がするのだ!
映画の中でもこんな言葉がある
「同情をしてくれるけど、理解はしてくれない」
「普通」というセリフもたびたび登場する
ところで「普通」とは何か?
おそらく戦後で国民みんなが荒んで貧しく苦しいとはいえ
この映画には心無い人たちが大勢描かれている
その心まで貧しい人たちが「普通」であるのなら
心優しい障害を持った人たちが「普通」でないのなら
人間とはとんでもなく恐ろしい存在だ
「私たちは苦しむために生まれてきた」というセリフがある
一方で
「私たちよりお金を持っている人たちはたくさんいるけど幸せかどうかは分からない」
「貧しいけれど苦労もしてきたけど私たちは幸福だ」と語る日もくる
山あり谷あり、人生はプラマイチャラ
次つぎ起こる困難を夫婦で家族で乗り越えてきたが
それでも次の災いが待ち構えている
悲惨なラストもまさにそうだが
それでも息子は強く生きようと心に誓い
父と二人家路につく
と、
悲しいながらも未来を感じるラストショットで映画は終わる、、、
ところが
ボクはそうは思わない
他の沢山のレビューを覗いてみたが
しかし誰も気づいていないようだ
このラストショットに隠された悪い予感を、
実は
家に向かう父と息子の背後に
トラックが一台わずかに映っている
このトラック
死んだ妻のヤクザな弟が
ミシンを奪いにきた時に使っていたトラックだ
監督がスクリーンの中に配置するもの全てに意味があり理由がある
「画が寂しいから、さっき使ったトラックでも隅に配置してみよう」なんて
アホな監督でない限りしないから
やはりこのトラックにも監督の意図があるんだよ
幸せを予感させるラストショットと思われがちだが
ボクには次に起こる悪い予感を暗示させる
恐ろしいラストショットにみえるのだ、、、
そしてね
何より何よりこの映画の一番の盛り上がりは
列車内の窓越しの手話による会話
「夫婦なんだから困難は独りで抱えず二人で立ち向かおう」といったような夫の会話に
ハッとして改めて夫婦とは家族とはを考えさせられる、、、