昔々のこと
取引先の会長さんは
ニューギニア戦地から生きて帰った数少ない兵隊だった
いろいろと戦地でのことを訊ね
そして訊くのが大変興味深かった
「ハンパでないよ、疲労なんてもんでないんだよ、とりあえずその日の目的地に辿り着けばほとんどの人間がバタっと倒れこんで眠りに落ちるのだよ」「ところがね、私はもうひと頑張りしてジャングルの奥にはいって果物を見つけて食べてから寝るんだよ」「ほとんどの人が起きてから食料を探しにいくだろ、ジャングルの手前の食料はなくなっているから、結局ジャングルをさまよって奥へ奥へ食料を探し求めてゆかなくちゃならないから、その分さらに疲労がたまるんだね」「思えば、どうにか生き延びて日本に帰れた連中は、寝るのをもうひと頑張り我慢して食料を得たヤツ等だね」
「人肉?ないとは言えないよ」
「家から一歩出れば目の前にコンビニがあって、いつでもなんでも手に入る現代の連中が、今の倫理観で今の法律で今の価値観で、なんか言ってんじゃねえよ!もっともらしいこと言ってんじゃねえよ!って、叫びたくはなるがね、ニコッ」
ニューギニアとフィリピンでは
また少し違うのかも知れないが
どちらも地獄であったことだけは、確かだろう、、、
大昔みた市川崑版があまりに衝撃的で
強い印象が残っているので
塚本晋也のリメイク版には手が伸びなかった
それでも
市川崑には及ばないにしても
かなり良い出来だからと薦められて観たのだが、
正直
まったく市川崑の足元にも及ばないというのが感想だ
塚本晋也って
いつまでたっても素人っぽさが抜けなくて
それが一種の特徴であり魅力でもあるのだろうけど
それは好みの分れるところで、
市川崑が極限的に再現性が高いのに対して
塚本版はグロいスプラッタ映画でしかない
再現性とボクは度々その言葉を使うが
実際にあったことでないことでも
さも現実を再現したかのような現実味を感じるのが「再現性」であり
一方で
何でも可能なはずのCG等最先端技術の作品に
そういうリアル感を感じないのは
技術を使い切れていない
使える使い手が少ないということなのだろうね
もはや
ハードに対してソフト(人間)がついていけていないと思える
話は<野火>に戻るが
最先端技術を使わなくとも(使わないからこそか?)
ただ彷徨えるだけの兵隊たちの描写を再現してみせた
塚本版は暑い現地でのロケが
さぞかし大変だっただろうなぁと感心する程度で
70年前のそれを再現できているとは思えない
(しかも撮影によってはフィリピンでないらしい)
ボクも70年前の現地を知っているわけではないが
それが「再現性」なのだ
知っていない場所でも
さも知っているように観客に感じさせるのが「再現性」なのだ、、、
最後に、
チャップリンは<黄金狂時代>の中で
空腹に耐えかね靴を食べようとする
靴も人肉も
人々は飢えの中でも
常識や普通の中にいる人々と同じ「人」なのだ
かえせば
あなたも、その時には、そうなるかもしれませんよ、、、
食は映画なり!